2025/7/1

「「信頼関係の破綻」という論理の落とし穴

第3章:「信頼関係の破綻」という論理の落とし穴

貸主が賃貸借契約を解除し明け渡しを求めるためには、法律上の要件を満たす必要があります。そのキーワードが「賃貸人・賃借人間の信頼関係の破綻」です。日本の判例法理では、賃貸借契約は当事者間の継続的な信頼関係を基礎とする契約であるため、たとえ借主に債務不履行(家賃未払いなど)があっても、その違反が軽微で信頼関係を破壊しない特段の事情がある場合には、貸主は契約を解除できないとされていますmn-law.jp。

これは民法の一般原則(債務不履行による解除権行使)に対する大幅な修正で、借主の生活の安定を保護するために生み出された法理ですmn-law.jp。いわば**「些細な違反で即座に追い出すことは認めない」**という借主保護のための歯止めと言えます。

しかし、この「信頼関係破壊の法理」には落とし穴があります。それは、どの時点で信頼関係が破綻したとみなされるかの線引きが明確ではなく、事案によって判断が分かれる点です。一般的には「家賃◯ヶ月分の滞納」が一つの目安と語られ、実務では3ヶ月以上の滞納が継続すれば解除が認められる傾向があるとされていますaube-fudosan.com。

実際、近年の裁判例でも「滞納総額が賃料3か月分程度」で信頼関係の破綻を認め契約解除を是認した例が複数ありますaube-fudosan.com。一方で、「3ヶ月」に満たない滞納期間でも状況次第で解除が認められたケースも存在します。東京地裁令和元年12月19日判決では滞納2ヶ月程度で解除が有効とされましたが、その背景には借主が弁護士を付けず有意な反論ができなかった事情があったと推測されていますaube-fudosan.com。
逆に、滞納額が8ヶ月分に及んでも、過去に長期間きちんと支払ってきた実績や滞納に至った経緯などを考慮し、信頼関係破壊を否定して契約継続を認めた例もあります(東京地裁令和2年12月11日判決)aube-fudosan.com。極端な例では、約38ヶ月にわたって満額の家賃支払いが行われなかった場合でも、借主が適法に家賃減額請求を主張していたような場合には、違反が直ちに信頼関係の破壊につながらないとして解除を否定した裁判例すらありますmn-law.jp。

このように、「信頼関係の破綻」の判断基準はケースバイケースであり、一概に「滞納◯ヶ月=アウト」と割り切れるものではありませんaube-fudosan.com。裁判所は滞納期間や額だけでなく、以下のような諸事情を総合考慮しますmn-law.jp:
• 滞納に至る経緯や理由(例えば、失業や病気による一時的な収入減なのか、浪費によるものなのか)mn-law.jp
• 賃貸借期間の長短(長年真面目に支払ってきた借主なら情状が考慮され得る)mn-law.jp
• 貸主側の対応(催告や猶予の有無、修繕義務懈怠など貸主側にも落ち度がないか)aube-fudosan.com
• 滞納後の借主の行動(解除通知後にすぐ完済したか、一部だけ払って放置したか等)aube-fudosan.com
• 契約解除による双方の不利益の程度(借主が追い出される不利益と、貸主が猶予することによる不利益の比較)aube-fudosan.com

興味深いのは、借主の高齢や病気といった事情も信頼関係破綻の有無に影響し得ると判示されていることですaube-fudosan.com。判例上、認知症や重病等で借主に判断能力や支払い能力の問題が生じ滞納に至ったケースでは、その事情を斟酌して「背信性が高いとは言えない」とする例も見られますreal-estate-law.jp。つまり法律上は、人道的・社会的な配慮も信頼関係を完全には失わせない特段の事情になり得るのです。
とはいえ、現実には家賃を数ヶ月滞納してしまえば多くのケースで裁判になり、敗訴すれば強制退去が現実味を帯びます。「信頼関係の破綻」のハードルは決して低くなく、借主が自力で「自分には特段の事情がある」と法的に主張・立証するのは困難です。
特に高齢の方や生活保護受給者だと、経済的困窮や体調不良が背景にあるため滞納もやむを得ない事情が多いのですが、そのこと自体を法的な盾にすることは容易ではありません。結果として、この法理は借主保護の盾である一方で、「滞納=信頼関係破綻」と早合点されてしまう落とし穴にもなりかねないのです。裁判所の判断がもう少し柔軟になされない限り、善意で契約を続行したい借主であっても、一度滞納すれば「信頼を裏切った」と見做されてしまうリスクが常につきまといます。