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2026/1/8
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第0回:外国人を規制する前に、私たちは何を失ったのか |
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外国人を規制する前に、私たちは何を失ったのか
──通勤電車と入管で見た、日本社会の変質 朝、自宅を出て電車に乗り、事務所へ向かう。 そこから必要があれば、東京出入国在留管理局へ足を運ぶ。 この移動は、行政書士としての日常であり、同時に、今の日本社会を映す一つの風景でもある。
電車の中で目に入るのは、外国人だけではない。 むしろ、多くを占めるのは日本人だ。 無言でスマートフォンを見つめ、周囲への関心を極端に失った表情。 混雑の中で誰かが困っていても、視線は上がらない。 苛立ちがあれば、言葉ではなく態度で示される。 それらは違法行為ではない。
しかし、「公共の場に身を置く一人の市民」としての振る舞いかと問われれば、私は時折、言葉に詰まる。 一方で、社会では「外国人問題」という言葉が頻繁に使われる。 外国人が増えた。 ルールを守らない。 だから規制を強めるべきだ──。 確かに、制度は万能ではない。 在留資格制度も、雇用制度も、現場では歪みを抱えている。 しかし、私は実務の中で、ある違和感を拭えずにいる。 それは、制度を不安定にしている原因が、本当に外国人だけなのかという問いである。
入管の窓口で、外国人と向き合う場面は多い。 書類の不備、理解の不足、説明の行き違い。 そうした問題は確かに存在する。 しかし同時に、日本人側の姿も見えてくる。 制度を「説明しなくてよいもの」と考える姿勢。 相手が理解できないことへの想像力の欠如。 ルールを守らせる側であるという無意識の優位。 制度とは、本来「人を信じること」を前提に設計されている。 悪意ではなく、理解と協力があること。 それが暗黙の前提だ。 ところが今、その前提が静かに崩れているように思える。
信じられないから、規制する。 面倒だから、排除する。 理解できないから、距離を取る。 その結果、社会全体が少しずつ硬直していく。 私は、外国人を過度に擁護したいわけではない。 同時に、日本人を断罪したいわけでもない。 ただ、こう問いかけたいのだ。
規制を強める前に、 私たちは「社会の一員としての振る舞い」を どこかに置き忘れてはいないだろうか。
日本人であることは、国籍の問題ではない。 ましてや血統の話でもない。 公共の空間で、他者とどう向き合うか。 制度を「自分とは無関係なもの」として扱わない姿勢。 その積み重ねが、社会を成立させてきたはずだ。 もし今、外国人問題が「沸騰」しているのだとすれば、 それは単に外国人が増えたからではない。 社会全体の信頼の温度が、下がっているからではないか。 今日も私は、電車に乗り、入管へ向かう。 そこで目にするのは、国籍を超えた人間の姿であり、 同時に、日本社会の現在地でもある。 規制は、最後の手段であるべきだ。 その前に、私たち自身が問い直すべきことがある。
この社会を、 どんな前提で成り立たせたいのか。 それを考え続けることこそが、 制度に関わる者の責任であり、 一人の市民としての務めなのだと、私は思っている。 |
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