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2026/1/9
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第5回:それでも制度は、人を信じられるのか |
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それでも制度は、人を信じられるのか ──疑いの社会で、制度に残された役割
制度の現場に立ち続けていると、 時折、避けては通れない問いに行き当たる。
それでも制度は、人を信じられるのか。 信頼が崩れ、
疑いが前提となり、 説明よりも証明が求められる社会において、 制度はどこまで人を前提にし続けられるのだろうか。
制度は、疑うために作られたものではない 制度は、本来、 人を疑うために作られてはいない。
すべてを監視し、 すべてを証明させ、 不正の可能性を徹底的に排除する―― そのような設計であれば、 社会は確かに「管理」できるかもしれない。
しかし、それは制度ではなく、 統制である。
制度とは、 人が誠実であることを前提に、 不完全な現実を整理するための仕組みだ。
その前提があるからこそ、 制度は柔軟性を持ち、 例外を許容し、 人を救う余地を残してきた。
信頼を失った制度は、何を選ぶのか だが、信頼を失った社会において、 制度は別の選択を迫られる。
・書類を増やす ・要件を厳格化する ・例外を切り捨てる
これは、制度が人を信じなくなった結果ではない。 人が制度を信じなくなった結果、 制度が自らを守るために選ぶ防御反応である。
その結果、 制度は「安全」になるが、 「優しさ」を失う。
外国人問題は、制度の限界を映し出す 外国人問題は、 この制度の限界を最も鮮明に映し出す。
言語の違い、文化の違い、 理解のズレ。 それらは、制度が人を信じるための前提を、 最初から揺さぶる。
だが、ここで試されているのは、 外国人が信頼に足るかどうかではない。
制度が、どこまで人を信じ続ける覚悟を持てるか である。
信頼を前提にできない制度は、 やがて誰に対しても疑いを向ける。
それでも制度が「人を信じる」意味 では、信頼を失った社会において、 制度が人を信じるとは、どういうことなのか。
それは、 無条件に信用することではない。 不正を見逃すことでもない。
疑いから出発しない、という選択である。
まず説明を聞くこと。 理解しようとすること。 関わることを避けないこと。
これらは効率が悪く、 失敗のリスクも伴う。 だが、制度が人を信じるとは、 そのリスクを引き受けることに他ならない。
制度を信じられる社会とは何か 制度が人を信じられるかどうかは、 制度単体の問題ではない。
社会が、制度に信頼を預けられるかどうか の問題である。
説明を聞かない。 理解しようとしない。 関わらずに済ませようとする。
この態度が広がる限り、 制度は人を信じることができない。
制度を変える前に、 制度と向き合う私たち自身の姿勢が問われている。
結語:信頼を前提に生きるという選択 それでも制度は、人を信じられるのか。 その答えは、 制度の側にはない。
私たちが、 信頼を前提に生きる社会を選び続けられるか にかかっている。
信頼を前提にすることは、 危うさを引き受けることだ。 裏切られる可能性を否定しないことだ。
だが、その危うさを拒み続けた社会は、 やがてすべてを管理し、 すべてを疑い、 誰も信じられなくなる。
制度は、人を信じたい。 だが、制度は一人では信じられない。
信頼を引き受ける社会である限り、 制度は、まだ人を信じることができる。
この問いも、 ここで終わるものではない。 私たちが選び続ける限り、 問いは、社会の中で生き続ける。 |
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